映像・チラシデザイン製作のお知らせ

2018年より、少しずつ映像制作やチラシデザインの外部受注を行っております。

ライブのOP映像や幕間用映像、宣伝用チラシの作成を承っておりますので
お問合せ等はjokefactory.jp@gmail.comまでご連絡ください。

<製作例>

◆チラシ製作例

こちらで過去に製作したチラシをご覧いただけます。

 

 

 

 

◆映像製作例

※架空のインタビュー映像をヤラセで撮影し、
あとは実際にバンジージャンプをやりました

※当日の撮影および文字入れ等の編集を行いました

※カラオケ用映像を自作しよう、という企画でした

※ゲーム実況動画風映像を作る企画でした

※好きな曲のPVを作ろうという企画でした

※OP映像の製作例です

独学・演技のあれこれ ② – 「演技」と「恥」のはなし –

現在、演技を勉強できる学校やセミナーは本当にたくさんあって、学ぼうと思えばいくらでも学ぶことができるようにはなっていると思われますが、本日もこのコラムでは「そういう学校ではたぶん教えたりとかしないだろう」という話をよりすぐってご紹介したいと思います。

本日のお題は、「演技」と「恥」についてです。

「緊張する」と「恥ずかしい」の違い

一般的に、特に舞台の演技なんかでは、「大きな声を出して、恥ずかしいことも堂々とやらないと役者にはなれない」というイメージになっていると思います。

幼稚園や小学校の頃から、お遊戯会などで舞台を目にしたり、自分でも乗ったりしたことがある方は多いと思いますが、舞台の上というのは実際に乗ってみると、そして、目の前にお客さんがいる状態で何かを話せということになるとさらに、緊張してしまうものです。もっと言うなら目の前にお客さんがひとりも居ない状態なのに舞台に立つとなんだか緊張したりすることもあるので、とにかく「舞台」というのは人を緊張させる作用があるもののようです。

そんな舞台の上に乗って、堂々と何かを言ったり表現したりということをするためには、まず「自分が『恥知らず』にならなければならない」、と考える方はずいぶんと多いかと思います。どんなときでも自信を持てるようにしなければ、とか、緊張したりしないようにしなければ、とか、それができなければ舞台に乗る資格はないと考えている方もかなりの人数でいらっしゃるかと思います。

では、舞台で活動する俳優や芸人の人たちは全く緊張しない恥知らずの人たちばかりなのでしょうか?中には確かにそういう方もいらっしゃるかもわからないですけども、大半の人たちは、舞台の上に乗る時はやはり同様に緊張しています。

ただ、ここで注意をしなければならないのは、「演技をすると『緊張する』」というのと、「演技をするのが『恥ずかしい』」というのは、実は似たようであって随分性質が違うものだということです。少し詳しく書いてゆきます。

演技が「恥」ではない理由

たとえば、映画や舞台などで、真昼の渋谷の交差点のど真ん中に立ってすっぱだかで大笑いするというシーンがあったとします。この行為自体はかなり恥ずかしいです。しかし、これが演技の場合はまず、演技者は「なぜこの「役」がこの行為をしなければならなくなったか」についてを集中して吟味することになります。

脚本を読み尽くし、役のバックグラウンドを作り込んでゆくと、この突拍子もないシーンに「意味がある」ということがわかってきます。

最愛の人が長い闘病の果てに目の前で為す術も亡くなり、最期に一緒に笑いあったとんでもない冗談を心のなかで泣きながらひとり、再現しているシーンかも知れないし、原因不明の病原菌に感染した最初の人間となりここから恐るべきパンデミックが発生するというシーンかもしれないし、そして、もし、これが「渋谷の真ん中ですっぱだかになったら爽快だと考えた人」の役だという指示が演出家からあったりしたら、「何故この人はそれが爽快だと考えるに至ったのか」を、徹底的に考え尽くして、非常に現実的な無理のない理由、根拠を役者自身の中に作り上げなければなりません。

つまり、どんなに突拍子もないシーンだろうと、「それが不自然でない理由を徹底的に自分の中に作り上げる」のが役者の仕事であり、もっと言えば、脚本家が脚本を書く段階でしっかりと仕上げておかなければならない部分の一つでもあります。脚本家は、演技者が無理なく役のバックグラウンドを豊かに構築し、シーンの演技に没頭することができるように、あらかじめ理論的な流れ、ストーリーを徹底的に作り込んでおく必要があります。

この、バックグラウンドの作り込みによる実演がうまく行けば、どんなに一般的には恥ずかしく見えるシーンも「役の本人にとってはなにひとつ問題がない」という状態になるわけで、その境地に没頭することさえできればどんなシーンだろうが『恥ずかしい』と思う必要はなくなるのです。

役者が恥ずかしがる時は「どこかに問題がある」時

それでもたまに、「この台詞は言うのが恥ずかしい」、となるときがあります。この原因は以下の2つに集約されます。

  • 脚本に矛盾がある等の理由で、役者が台詞の必要性を汲み取れない
  • 役者の経験不足や理解不足で、脚本の意図を理解できず台詞の必要性を汲み取ることができない

上記2つ以外には「体調がなんだかおかしい」とかの原因もあったりしますが、根本的な原因は上の2つに尽きます。そして、この2つを放っといたまま無理やり上演に踏み切ると、間違いなく「駄作」と呼ばれる出来栄えとなります。

役者本人や、あるいは脚本家や演出家本人がすでに稽古場で検知している問題点を、観客の方が見抜けないわけはありません。真っ先にバレます。真っ先にバレて、大の大人が何人も集まって作り上げたというのに「誰もその矛盾を解決するために動ききることができなかった」という、仕事上の怠惰を見抜かれてしまいます。

演技上の「恥」、というポイントは、演技者や舞台製作者が、その全精力・全プライドをかけて挑んでいかなければならない、重要な問題点です。これらにどれだけ粘り強く、誠意を持って取り組んで、難しい交渉を繰り返しながらみんなで納得できるシーンへとたどり着くことができるかが、舞台作品製作の醍醐味なのだと思います。

————————-

周到な作品は、どこがどう、と具体的に指摘ができなくても、そのシーンへの丁寧な気配りや尋常でないほどの熱意、執念がこめられているということが観客席まで伝わってゆきます。そして、そういう作品を作ることができる現場というのは、非常に厳しくしんどい空間で、そして、代え難いほど面白い世界だろうと思います。

もっとも、この「恥」というものは演技者・製作者の「レベル」に対応していて、つまり、自分たちが「恥ずかしい」ということがわからない、文字通りの『恥知らず』になっていることに自分たちだけが気づけていないという、恐ろしい状況につながる部分でもあります。

しかし、その無知による恥というのはそれこそ「恥をしのんで」作り続けて、成功も失敗も体験しながら謙虚に研究をすすめ、そしてまた、精一杯の仕事をもって次の舞台を作るという、その作業の繰り返しでやっと身につけられる感覚でもあります。舞台のことだけでなく、いろいろな分野の見識を広めて、様々な世界についてを勉強し続けないと進んでゆくことができない部分であります。

つきつめればつきつめるほど、人間の器(うつわ)の奥底に直結している、嘘のつけない概念が「恥」と呼ばれるものなのだろうと、演技について考えながらつくづくそう思う次第です。

独学・演技のあれこれ ① – コントの演技・俳優の演技 –

物心ついた頃から人前に立つのが好きで、なので学校では演劇部に入りたがり、とうとう演劇の専門学校まで出てしまい、その後にあれこれ考えたり試したりして結局お笑いのライブでコントをやる、という活動をはじめてからもうすぐ17年が経とうとしています。

その間、いわゆる「演劇」にはほとんど関わることはなく、また、事務所や養成所などで「お笑いを学ぶ」ということもなく、コントは独学、というより、目分量で作ってきており、そして、私はどういうわけかお笑いのライブに出始めてからというものテレビのバラエティ番組やネタ番組をほぼほぼ観ることができなくなってしまいました。観ている内に、なんだかいたたまれないような、落ち着かないような、妙な気分になるのです。なので、テレビももう10年ぐらい家に無い状態で過ごしています。

それでも、お笑いのライブに出ることもできるし、自分で舞台を借りて自分一人きりが出演者となる単独公演をやることだってできます。活動の仕方としてはあまり大勢はいないタイプの芸人だとは思いますが、それでも、演技についてはやはりその17年間でいろいろ考えてきております。

普段は自分でぼんやり考えているだけで終わってしまうものごとを、きちんと文章にまとめればもしかしたら読み物として多少は楽しんでいただけるかもしれない、と、これから何回かにわけてこの「読み物」コーナー上で独学なりの演技の話をしてみたいと思います。

とはいえ、「いつも友だちと行く居酒屋さんとかでの話のタネ」として披露してきたお話ばかりになりますので、そーんなにたいしたお話にはならないと思います(笑)。そういう考えもあるのね、ということでどうぞお気楽にご覧ください。

 

コント芸人と俳優とにおける「演技感」の差異について

演劇の専門学校にいる間は、自分が芸人としてお笑いライブに出るとは全く思っていませんでした。ただ、その当時からなんとなく尊敬していたのは「コントができる」という俳優さんや芸人さんで、周囲を見回してみてもそういう方は総じて「演技力が高い」と評されているようでした。ですので、私も自然と目指す方向として「コントができる人」を希望してゆくようになったのだろうと思います。

ただ、漠然と「コントがやりたい」と思ってはいましたが、お笑いライブに出始めた頃の私はコントの作り方を全く知りませんでした。人生初のお笑いライブで文字通り死ぬほどスベリ倒して、これは本当に難しい芸当なのだなと改めて目の当たりにして、そこからとにかくライブにたくさん出て見よう見まねでいろいろ工夫する、というその繰り返しでした。

コント芸人の熟達方法

コントの芸人と、俳優とでは、同じ「演技」を扱う業種でも、その『熟達の方法』はかなり違います。

演劇の場合は、たとえ一人芝居や二人芝居の場合でも脚本家や演出家が別に付く場合があり、稽古場を押さえて繰り返し稽古したものを披露する、という文化があるわけですが、コント芸人の場合はほぼ必ずと行っていいほど「演出家」が別に付くことはありません。演出家と脚本家を同時に兼務する形で「作家」が付くことはありますがインディーズのお笑いライブに出る芸人でまず作家とがっちりチームとして組んで活動している人はいません。作家が付く、といっても、月一くらいの割合で事務所付きの作家の方が何組もまとめてダメ出しを行う会があるくらい、そして、ネタ作りの作者は芸人自身となります。

この、脚本・演出・出演を常に自分たちで行う、というスタンスがコント芸人の「演技」を俳優とは別のものへと熟成させてゆくわけです。もっといえば、一生かけて「見よう見まね」でやってゆく人がいてもなんらおかしくない、というのがコント芸人の特徴と言ってもいいかもわかりません。

「笑わせることに特化させた演技」の意味

そして、コント芸人と俳優との演技をさらに異なるものとしてゆく要因が、「笑わせなければならない」という『制限』です。

落語に人情噺があるように、お笑い的な要素が少ない芸というのもありますが、基本的にはコントは「笑ってもらうための演技」となります。ただ、これは演劇における「コメディ」とはどこか毛色が違うものが多いようです。

これまで観察してきた限り、一つの要因としてコントの演技は演技者の感情や脚本の狙い等よりも「間とタイミングの技術」に比重が大きい、というのがあります。場の空気を読む、という言葉が使われたりしますが、ネタの脚本は「観客の意識をどのように誘導し、そしてタイミングよく落とす(笑わせる)ことができるか」を念頭に書かれており、それを再現するには感情の再現だけでなく「ここであえて長めの間を置いて、一旦観客の注意を引く」という、登場人物の心理とは全く異なる演技スキルが、感情の演技と同時に、断続的に必要になってゆきます。このタイミングの感覚は、リズム感よく歌を歌ったり、楽器の演奏を行ったりするものに若干通じるものがあります。(芸人の人で歌がうまかったり楽器の演奏やDJがうまかったりダンスが得意だったりする人がいるのはこの「リズム感の良さ」に関係があると考えます)

その点、演劇の「コメディ」は脚本に登場する人物の心理や行動を忠実に再現することによって発生する面白さの方に比重が置かれることが多くなり、その分コント芸人が使うような「個人技的な笑いのとり方」は重視されにくいのではないか、と思います(俳優のタイプによって個人技的な笑いを得意とする人もいるかと思いますが)

コントの演技における「リアリズム」

では、コント芸人は演技に関して登場人物の心理や行動を忠実に再現することはおろそかにしているか、という話になると、またちょっと変わってきます。

大前提として、笑ってもらえる演技をするには、「演技が問題なく上手い」か「思いっきり下手」かのどちらかに振り切る必要があります。素人目に見ても演技が下手だと判断されてしまう場合、ネタを十分に再現させることができず笑いを取ることが難しくなります。つまり、演技ができない、というのは単純にコント芸人としてのハンデとなってしまうのです。

その点、演技が上手い芸人の場合は、短いネタ時間の中でもすぐに世界観を再現させることができ、また、感情の流れが自然に見える自然な演技を行うことができればその分お客さんも舞台の方へ神経が引き込まれてゆく、そして演技に集中したお客さんと演者との間に出来上がる空気が「場」となって、ネタに仕込まれた笑わせるための『仕掛け』が十分に発揮するようになるのです。

また、コントの場合には「現実に近い抑えた演技」を目指す必要は必ずしも無く、登場人物のキャラクターがリアルに見えさえすれば、つまり、キャラクターとしての説得力が生まれさえすれば、一見拙く見える演技でも「こういう人居そう」というリアリティとなり、大きな効果を発揮することもあります。つまり、コントの演技はあくまで『ネタに仕組まれた、笑わせるための仕掛けを成立させることが目的』なので、キャラクターに説得力や存在感があればそれで十分となるケースもあるわけです。これは、演者の持つキャラや世界観に大いに左右される部分です。

まとめ

コント芸人と俳優の演技を対比した場合の差異について、おおまかに下記の三点が考えられそうです。

  • コント芸人は演技者としてだけでなく脚本家・演出家の立場で考える機会も多くある
  • コントの演技は「間とタイミング」の技術にかなりの比重が置かれている
  • コントの完成度を上げるためには俳優と同様にリアリティのある演技を行う必要があるが、それは「より現実に即しているかどうか」よりも「キャラとして(ネタを機能させるための)説得力があるか」に重きが置かれる

芸風にもよるところが大きいので一概には言えない部分もありますが、「演技が上手い」と言われているコント芸人の方には当てはまる部分が多いと思います。

次回予告

私は演劇の現場に居た機会が少ないので俳優側の話はあんまりできない、というのが今回やってみてわかりましたので(笑)、次回からは私がコントをやりながら考えてきた演技についてのメモ書きを少しずつ書き付けてゆこうと思います。私の頭の整理のためなのですが、よろしければまたおつきあいいただければと思います!どうぞよろしくお願いします。

11月11日 人生休憩室 vol.2 開催いたします

いつもおせわになっております。
JOKE FACTORYの砧川です。

来る11月11日に、下記の通り開催を行うこととなりました。

——–

砧川キヌ子アワー
「人生休憩室 vol.2」

2017.11.11(土)
阿佐ヶ谷アートスペースプロット
前売:2000円 当日:2500円
通し券:3700円

昼の部
開場 13:30 開演 14:00

出演:砧川キヌ子・姫くり なみえ・森薗尚也

演目
・砧川キヌ子 ひとりネタ
・ふたりネタ (砧川×姫くり なみえ・砧川×森薗尚也)
・さんにんネタ(砧川×姫くり なみえ×森薗尚也)
・インプロ(即興演技)コーナー(砧川×姫くり なみえ・砧川×森薗尚也・砧川×姫くり なみえ×森薗尚也)

夜の部
開場 18:30 開演 19:00

出演:砧川キヌ子・姫くり なみえ・きみえ

演目
・砧川キヌ子 ひとりネタ
・ふたりネタ (砧川×姫くり なみえ・砧川×きみえ)
・さんにんネタ(砧川×姫くり なみえ×きみえ)
・インプロ(即興演技)コーナー(砧川×姫くり なみえ・砧川×きみえ・砧川×姫くり なみえ×きみえ)

——–

前回同様、砧川キヌ子アワーというサブタイトルになっているのですがこれは、「砧川キヌ子単独公演」と書くにはゲストの方がたくさん出てくださるのでどうすればいいか、と一通り悩み、あんましよくないかなー、と思いつつ仕方なーくつけたものです。
その点以外は単独公演とまったく遜色がない公演なのでちゃんと単独と同様に気合が入っているのですが、どうしたら伝わってくださるでしょうか。
とにかくこれから一生懸命準備して、どんどん宣伝したいと思います。

チラシがもうすぐ出来上がりますので、出来上がり次第改めてこちらのサイトでご案内を行います。どうぞよろしくお願い致します!

ごあいさつ

こんにちは!JOKE FACTORY主宰の砧川(きぬたがわ)キヌ子です。

本日からJOKE FACTORYのウェブサイトを一新しまして、これを機に「読みもの」コンテンツを掲載してゆくことにいたしました。

掲載内容としましては、

  • これまで砧川が調べたり勉強したりしたことのまとめ
  • これまで砧川が見聞きしてきたお話

などを書いてゆけたらと思います。演技やインプロ、お笑いライブの話など、一個人の立場からまとめたものを書きたいと思っておりましたので、ひとまずやってみるつもりです。

また、公演の準備期間中は稽古の様子なども書いてゆく予定です。

…とはいえ、更新がしんどくて続かない、とかなってしまっては元も子もないので、まずはゆるめにやってゆこうと思っとります、どうぞごひいきの程、よろしくお願いいたします~。