独学・演技のあれこれ ② – 「演技」と「恥」のはなし –

現在、演技を勉強できる学校やセミナーは本当にたくさんあって、学ぼうと思えばいくらでも学ぶことができるようにはなっていると思われますが、本日もこのコラムでは「そういう学校ではたぶん教えたりとかしないだろう」という話をよりすぐってご紹介したいと思います。

本日のお題は、「演技」と「恥」についてです。

「緊張する」と「恥ずかしい」の違い

一般的に、特に舞台の演技なんかでは、「大きな声を出して、恥ずかしいことも堂々とやらないと役者にはなれない」というイメージになっていると思います。

幼稚園や小学校の頃から、お遊戯会などで舞台を目にしたり、自分でも乗ったりしたことがある方は多いと思いますが、舞台の上というのは実際に乗ってみると、そして、目の前にお客さんがいる状態で何かを話せということになるとさらに、緊張してしまうものです。もっと言うなら目の前にお客さんがひとりも居ない状態なのに舞台に立つとなんだか緊張したりすることもあるので、とにかく「舞台」というのは人を緊張させる作用があるもののようです。

そんな舞台の上に乗って、堂々と何かを言ったり表現したりということをするためには、まず「自分が『恥知らず』にならなければならない」、と考える方はずいぶんと多いかと思います。どんなときでも自信を持てるようにしなければ、とか、緊張したりしないようにしなければ、とか、それができなければ舞台に乗る資格はないと考えている方もかなりの人数でいらっしゃるかと思います。

では、舞台で活動する俳優や芸人の人たちは全く緊張しない恥知らずの人たちばかりなのでしょうか?中には確かにそういう方もいらっしゃるかもわからないですけども、大半の人たちは、舞台の上に乗る時はやはり同様に緊張しています。

ただ、ここで注意をしなければならないのは、「演技をすると『緊張する』」というのと、「演技をするのが『恥ずかしい』」というのは、実は似たようであって随分性質が違うものだということです。少し詳しく書いてゆきます。

演技が「恥」ではない理由

たとえば、映画や舞台などで、真昼の渋谷の交差点のど真ん中に立ってすっぱだかで大笑いするというシーンがあったとします。この行為自体はかなり恥ずかしいです。しかし、これが演技の場合はまず、演技者は「なぜこの「役」がこの行為をしなければならなくなったか」についてを集中して吟味することになります。

脚本を読み尽くし、役のバックグラウンドを作り込んでゆくと、この突拍子もないシーンに「意味がある」ということがわかってきます。

最愛の人が長い闘病の果てに目の前で為す術も亡くなり、最期に一緒に笑いあったとんでもない冗談を心のなかで泣きながらひとり、再現しているシーンかも知れないし、原因不明の病原菌に感染した最初の人間となりここから恐るべきパンデミックが発生するというシーンかもしれないし、そして、もし、これが「渋谷の真ん中ですっぱだかになったら爽快だと考えた人」の役だという指示が演出家からあったりしたら、「何故この人はそれが爽快だと考えるに至ったのか」を、徹底的に考え尽くして、非常に現実的な無理のない理由、根拠を役者自身の中に作り上げなければなりません。

つまり、どんなに突拍子もないシーンだろうと、「それが不自然でない理由を徹底的に自分の中に作り上げる」のが役者の仕事であり、もっと言えば、脚本家が脚本を書く段階でしっかりと仕上げておかなければならない部分の一つでもあります。脚本家は、演技者が無理なく役のバックグラウンドを豊かに構築し、シーンの演技に没頭することができるように、あらかじめ理論的な流れ、ストーリーを徹底的に作り込んでおく必要があります。

この、バックグラウンドの作り込みによる実演がうまく行けば、どんなに一般的には恥ずかしく見えるシーンも「役の本人にとってはなにひとつ問題がない」という状態になるわけで、その境地に没頭することさえできればどんなシーンだろうが『恥ずかしい』と思う必要はなくなるのです。

役者が恥ずかしがる時は「どこかに問題がある」時

それでもたまに、「この台詞は言うのが恥ずかしい」、となるときがあります。この原因は以下の2つに集約されます。

  • 脚本に矛盾がある等の理由で、役者が台詞の必要性を汲み取れない
  • 役者の経験不足や理解不足で、脚本の意図を理解できず台詞の必要性を汲み取ることができない

上記2つ以外には「体調がなんだかおかしい」とかの原因もあったりしますが、根本的な原因は上の2つに尽きます。そして、この2つを放っといたまま無理やり上演に踏み切ると、間違いなく「駄作」と呼ばれる出来栄えとなります。

役者本人や、あるいは脚本家や演出家本人がすでに稽古場で検知している問題点を、観客の方が見抜けないわけはありません。真っ先にバレます。真っ先にバレて、大の大人が何人も集まって作り上げたというのに「誰もその矛盾を解決するために動ききることができなかった」という、仕事上の怠惰を見抜かれてしまいます。

演技上の「恥」、というポイントは、演技者や舞台製作者が、その全精力・全プライドをかけて挑んでいかなければならない、重要な問題点です。これらにどれだけ粘り強く、誠意を持って取り組んで、難しい交渉を繰り返しながらみんなで納得できるシーンへとたどり着くことができるかが、舞台作品製作の醍醐味なのだと思います。

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周到な作品は、どこがどう、と具体的に指摘ができなくても、そのシーンへの丁寧な気配りや尋常でないほどの熱意、執念がこめられているということが観客席まで伝わってゆきます。そして、そういう作品を作ることができる現場というのは、非常に厳しくしんどい空間で、そして、代え難いほど面白い世界だろうと思います。

もっとも、この「恥」というものは演技者・製作者の「レベル」に対応していて、つまり、自分たちが「恥ずかしい」ということがわからない、文字通りの『恥知らず』になっていることに自分たちだけが気づけていないという、恐ろしい状況につながる部分でもあります。

しかし、その無知による恥というのはそれこそ「恥をしのんで」作り続けて、成功も失敗も体験しながら謙虚に研究をすすめ、そしてまた、精一杯の仕事をもって次の舞台を作るという、その作業の繰り返しでやっと身につけられる感覚でもあります。舞台のことだけでなく、いろいろな分野の見識を広めて、様々な世界についてを勉強し続けないと進んでゆくことができない部分であります。

つきつめればつきつめるほど、人間の器(うつわ)の奥底に直結している、嘘のつけない概念が「恥」と呼ばれるものなのだろうと、演技について考えながらつくづくそう思う次第です。